法人代表者として
角倉輝 1988年9月15日生まれ。
4人兄弟の末っ子として生まれ、幼い頃から家業を手伝い、
2代目として代表取締役に就任する。
まず、角倉代表についてお聞かせください、ずばり幼い頃から家業を継ぐつもりでお手伝いをされていましたか?
角倉代表(以下、角)本当に決めたのは大学卒業するときですかね。
それまでのその高校ないし、大学っていうのはまあひとまず親が農業をやっているからというわけでもなく、漠然と他の道もあるのかなというのは、ちょっとどっかにあったりとかして。で、踏ん切りついたのはほんとにもうアメリカに実習行くって決めたときですかね。まあ全然若い頃なんで気持ちがぶれるはぶれるんですけど(笑)
ある意味若さという無限大な可能性はありますもんね(笑)。
角いや、だから、まあ海外実習行きましたけど、行っている間に『あ、なんかこっちでなんかできるかな』とかも思ったことあるし、それこそうちの先行して姉が親父と一緒にやってるんだったら別に一緒にやんなくてもいいかなって。
僕が分譲とか独立みたいな感じで牧場やることもできるのかなとかも考えてたんで…
うーん、そうですね。
そういうことは考えてましたけど、まあでも先にやっぱうちの姉がこの牧場から独立して、そこから社員を使いながら親父が一人でやっていて、で親父もその時でもう60超えてたんで。場内の方はあんまりタッチしていないような感じだったんで。
まあ俺がやるしかないなっていう気持ちはありましたかね。
どっちかというと前向きな気持ちというよりかはもう使命感の方が強かったですか?
角どっちかったらそうかもしれないですね。いや、うちの親父は継げとは一言も言わなかったんですよ。この道に来いともまったく言わなかったし。
やりたいと思うんだったらと。
角そうですね、はい。だから、あんまこう親父と膝突き合わしてっていう話はあんまりしたことがないんですよね、正直。

牧場を本気でやろうというきっかけとなったのは角倉さんが行かれた、アメリカの留学だというのをお伺いしておりました。
そのきっかけは圧倒された?どういった心境の変化があったのでしょうか。
角仕事に従事する姿もそうですし、そこの牛を見て純粋にかっこいいと思いましたね。
僕はショウブリーダーと呼ばれる人のところに実習行かせてもらったんですけど、うーんと共進会(※1)はやっぱ好きだったんですよ。普段の酪農の仕事とは別に。
で、共進会は好きだったし、学生の時も行ってたけど、でもうちが牛の病気もあったりとかで出せない状況がずっと続いてて。
で、あっち行って勉強もさせてもらったし、日常の管理から。単純になんていうんですかね、日本の酪農って長靴履いてつなぎ着て帽子かぶって。
※1 共進会とは
全国和牛能力共進会の略 畜産の改良成果や家畜の能力を競い合う品評会で「和牛のオリンピック」「和牛の美人コンテスト」とも称される会
俗にいう北の国からスタイルですよね(笑)
角そうそうそう、っていうイメージが今でもあると思うんですけど。
あっちの人はワークブーツ履いて、ジーパン履いて、上Tシャツだパーカーだ着て、それで搾乳したり日常の仕事したりしてるっていうのがなんか単純にかっこいいなと思っちゃったんですよね。だから、うーん、まずそこはいいなと思ったし、やっぱりこう日本のショウを見てても、まあ僕全然そんな牛が見れるとかじゃないんですけど、ちょっと圧倒されるような牛が牛舎の中にずらっと並んでて。
大きさや形?
角大きさ、形…まあ幅っていうんですかね。骨の感じが全然違うなと思って。やっぱこれが世界一、そこのお世話になっていた牧場に世界一の牛がいたんですよ。
前年に獲った牛が。それを見たときにもうほんとに圧倒されちゃって。
わぁ~~~かっこいい牛っているんだなと思って。それがすごいなと思って、それを扱えるという幸せとか喜びを感じれて、そういうふうに思ってもらえる牛を作りたいなっていう気持ちが芽生えてきたと言いますか。
やっぱそこの世界、その中でもやっぱビジネスというものがあって、まあ牛の売り買いだったりとか、そういうブリーダーとして子牛を生産する施設が別にあったりとか、まあ結構大きいお金動いてるなっていうのをすごい見させてもらったんで。
なんかこういうショウの世界って日本だとこう分離されているっていうか、普段の酪農の仕事、牛乳を売ってっていう仕事と別で【趣味】みたいな印象が日本では強いんですけど。

必ずしもこう大きいからって、要するに乳が出るとは限らないからということですよね。どこまでいっても一次生産業としてしか見られていないということですよね。
角でもそうじゃなくて、なんていうんですかね。酪農家を相手にしたビジネス、酪農家がするビジネスっていうのがやっぱこうちゃんと市場になってて。これだけ大きいお金を動かしてっていうことができてるっていうのがやっぱ全然日本と違うなっていうのがすごいあったんですよね。
うちに帰ってきてそういう世界を見てると、やっぱ日本でも一部そういうふうなことができている人もいたわけで、やっぱそういう人の牛ってレベルが高いし。うーん、でもここの世界に、まあ後にですけど、この世界で俺は日常やりながらやりきれないかもってどっかで思ったのは思ったんですけど。
だから今はちょっと付き合い方がまたちょっと違いますけど、当時はやっぱりこういうことをやりたいっていう思いは…
世界一かっこいい牛作りてぇって(笑)
角(笑)かっこいいな~がやっぱり強いですね。
そこから20代やって30代になって、今はどういった気持ちでなっていきましたか?
角今はやっぱり、でもショウの世界は相変わらず好きだし、一次産業的な酪農が大事なのはすごいわかってるんで、じゃあメインはそこにしようと。共進会とかそこの部分ってうちの独自の部分というか、うーん、何ていうかな。こう広告塔になるような牛、っていうのができたらいいなっていうところがあって。そういうふうな形で共進会に関われば、うちの牧場をアピールすることができるし、そこを目的に入ってきてもいいかなっていうふうに思ってたんですけど、その矢先にまた牛に病気が出ちゃって。
そこでまた牛が出せなくなって…ただそれでも僕だけは今でも共進会に行ってて。それは僕が単純に行きたいからということではなくて…やっぱ忘れてほしくない、その世界を。
ミックランデーリィの角倉という男がいるんだぞと。
角そう、忘れてほしくないし、関わっていたい。その中で地元の先輩とかが良くしてくれるし、手伝ってと声をかけてくれるし、みんなに覚えといてほしいし。僕自身が牛をひっぱる技術とか、そういうのを少なくとも地元の人は認めてくれているから、やっぱり僕自身成長できるし、十勝・北海道のことに今ちょっとずつ関わらせてもらってて。
そのショウの世界とか。役員とかもやらせてもらって、そういう世界にもちょっとこう引っ張り上げてくれている先輩たちがいるんで。
そこはやっぱ人の繋がり、そしてこの共進会というもの自体が衰退の傾向にあるんで、それはやっぱりちょっとなくなるのはさみしいなというのがありますので…微力ながらそこは力になれるんであれば力になりたいし、関わる人間でいたいし、好きな世界なんで。その中で僕がうちの会社の仕事という面に落とし込めれば一番いいなとは思っていますね。
病気、感染症が出てしまうとある程度の謹慎期間というか、出せない期間があると思うんですけど。大体何年くらい出せなくなるのでしょうか。
角最短で今2年に変わったんですよね。それまで3年だったんですけど。一頭も出ない状態が2年間続くとっていうことなんですけど。ただやっぱり、ちょこちょこ出てしまう…検査を何か月に1回とかっていうのがあるんですけど、対策期間っていうのが。一応、法定伝染病になっている病気なんで、まあそこをクリアできないとやっぱりショウには出せないっていうふうになっているので。
ゆくゆくはまた共進会へ…実益の部分でもあるとは思うんですね、牛をいかに効率よく育てられるかという部分も。そこがうまくいけばクロスマッチじゃないですけど、それが乳をより出せる牛に繋がるかもしれないとか、諸々あるとは思うんですけど。
牛自体は正直好きだった?生まれた時からいるものだけど好きとか嫌いという感情は当時ありました?
角好きとか嫌いとかって感じもしてなかったですね。何かあるってわけじゃないですけど、うちの両親が兄弟みんなに『これお前の牛』、『これはお前の牛』みたいなのがあったんですよ。その番号はずっと覚えてて。僕で言えば251って牛なんですけど、その牛は俺の牛って言われてたんですよ。なんでかわかんないですけど(笑)
理由は未だにわかんないです。誕生日とかあったのかわかんないですけど…何でですかね、そういえば聞いたことないな。
でも、姉には姉の牛がいてっていうのがあって。やっぱりそういうふうに与えられると、その牛を可愛がったりとかするんですよ。
集から個になるからという部分もあるんですかね。
角そこは芽生える何かがあったんだと思いますね。そんな何年もずっといたわけでもないんですけど、その牛が。


酪農系の高校に行って、学業としての成績はどうでしたか?
角学業としての成績は、その農業高校の中では上の方でした(笑)
あの、一般的には全然下の方だと思います。
その後酪農系の大学へと進学されてとの事ですが、専攻は?
角酪農学部というのが当時あって、酪農学部酪農学科に入って専攻ゼミは育種学でした。家畜育種っていうゼミに参加してました。
そこからアメリカに留学するきっかけというのはあったのでしょうか。
角みんな高校・大学を卒業するタイミングで進路を決めるときに、僕の高校・大学の友達って自分と似た立場の人間が多いんですよね。
後継者みたいな形の人間が多くて、高校・大学出たらすぐ帰るっていう人がいる中で、卒業して実習してから何年かやってからいく、一旦就職する…様々いたんですけど、僕も大学4年間やってすぐ帰りたくないなって思ったんです。
現場経験もないし、それで帰って、大学まで行ってるけどそれで身についた何かがないと思ってたんです。
酪農を経営するうえで。だからやっぱり実習は行きたいなと思ってて、でも22で卒業して海外にはやっぱり行ってみたい気持ちはあったんですよ。姉も行ってたし、父も行ってたんで。
だから行ってみたい気持ちはあったけど、22で卒業して国内実習やってから海外ってなったら…3年はまたかかるなと思って。それもどうかなと思ったんで、だったらもう海外一発でいきたいなっていうのを親父に話して、そしたらそういう知り合いといいますか、海外の方の牧場詳しい人に繋いでもらって、その牧場を紹介してもらって行ったという感じですね。アメリカのウィスコンシンに1年半行って帰ってきて、そのあと2ヶ月だけ富良野に行ってたんですよ。」
それはまた別の?
角そうです。コンサルの人が僕がいない間に来るようになってて、その人のお客さんなんですけど、富良野の人も。僕たしかにそういうブリーダーさんのところで実習して、身につけたものはあるにしろ、やっぱりコンサルさんと親父との話のなかでこういう規模のこういう経営体だから少なくとも経営の近しいところにいって経験があった方がいいんじゃないかということで、本当は3~4ヶ月の予定だったんですけどあちらの都合で短くなったんですけど。期間としては短かったですけどたしかに経営するという意味では大事な時間だったなと今は思いますね。
一般的に2ヶ月程度ならアメリカから帰ってきてすぐミックさんでも良かったのでは?とはなりそうですが。
角その2ヶ月というのは、うちの状態もあったんで。っていうのは言われたんですけど。今ちょっと時間経って考えてみれば、たしかに当時の海外から帰ってきたばっかりの僕は…熱量でいえば共進会とかそっちの方が強いんですよ。世界一かっこいい牛を作るぞという気持ちで帰ってきて。そういう牛の管理を勉強してきたんですよ。
でも、それを帰ってきてここで多分できてなかったと思うんですよ。
だから行った方がいいって言われて、行かせてもらって『なんでだよ』と当時は思っていた。なんですぐやらせてくれないんだと思っていましたね。
人の家に実習に行くことになって、やっぱ我は出せないじゃないですか。
親父の顔も潰しかねないし、作業場はある程度ベースがその時点であったので、作業は全然やらせてもらえたんですけど。でも、例えば搾乳とか機械乗るとかはベースができてて…そうじゃない繁殖受精とかは実習場ではやってこなかったし、大学で学んだとはいえ乏しい、どっちかったら遊びに夢中なんで大学生なんて(笑)
だからやっぱり、ちゃんとそこは教えてもらえたし、そこはやっぱりコンサルとして同じ人が入ってくるんで、二週に一回来るんでそこで話をしたりとかもできたし。
社長とも経営について自分が帰ってきたときはこういう状況でとかそういう話を聞けたりとか。
わりと中身の濃い数か月だったんですよ。やっぱりそれを一旦挟んでから帰ってきて始めたんで。
何て言うんですかね…熱量高くアメリカから帰ってきた僕よりもちょっと冷静に一歩引いた目で。まず日常だと。やりたいこともちょっと別の時間を使ってやり始めようとかそういう精査ができた期間があったんで。当時は何もわかってないですけど、今はすごい大事な時間だったなと思うし。それはそれで楽しかったし。ちょっと雪多いなとは思いましたけど(笑)
楽しかったですね。

アメリカ・富良野での実習経験を経て、23歳半でミックランデーリィに入職。何か違いや戸惑いを感じたりせずスムーズにいきましたか?
角ありましたね、戸惑いは。たしかに実習は色々させてもらってやってきたけど…うちの親父あんまり喋らないんですよ(笑)喋らないというか語らないというか。あんまり言わないんですよ。
背中で語るタイプ?だめなものもあまり言わないんですか?
角だめなものは言います。けど、こうした方がいいとか全く言わないわけではないんですけど。
例えば…何していいかわからなかったんですよ。変な話、作業だけでいえば俺いてもいなくても回るっちゃ回るみたいな状態だったんですよ。
ほんとにいないところは、うちの母がいついつやってみたいな感じだったけど。
だから何していいかわからなくて。どうしたらいいかなと思ってて。
まず何か一個自分が毎日やるものを作りたいなと思って、親父がちょっとだけやってた育成の繁殖管理・発情管理とかエサやりとかそれを始めて、コンサルさんとも話して育成が良くない?っていうので哺育の方を始めて。
哺育がけっこう、たぶん最初は熱中したじゃないけど。哺育ロボットみたいなのがあるんですけど、ここででかくしたいなと思って、それでたまたまその当時営業できてた広尾の人と仲良くなって、こうしたらいいんじゃないああしたらいいんじゃないとかそういう話をしながら、その部門を僕がやっていって…僕がそれをやることによってうちの母の負担が減ったりとかもあったんで、そういうふうにして最初はそこばっかりやってましたね。
自分の中でやっていかなきゃいけないものを見つけていったんですね。
角棲み分けみたいな感じですね。だからあまり職員とはそんなにちゃんと話していないし…先代の社長、親父が職員や自分に対してもあんまりなくて。
まあ畑とかは親父にあれやれこれやれとは言われましたけど。だから搾乳牛とかの方をちゃんとやりだしたのは帰ってきて4~5年経ってからじゃないですかね。なんかこう…なんか環境なのか人なのかはわかんないですけど、なんか合わないなと思ってたし。
その当時って親父が牛舎のことをほとんどやっていなかったんですよ。その当時からいた職員が基本やっていて、それでなんとなく回っていた感じなんです。その時にコンサルさんが入ってきたタイミングがあって、そこから繁殖がすごい急に良くなって、その当時からいた職員は頭がすごいきれるんでどんどん吸収をしていって。でも自分と性格的には最初合わないなと思ってて。
その職員を知ってはいたんですよ、手伝いとかしていたんで知ってはいてまったく話さないわけじゃないけど、合うか合わないかでいえば合わないと思っていたし、そんなに仕事で関わりも持ってなかったんですけど。でもそれじゃダメでしょ、と。コンサルさんとか営業の人が、わりと間に入ってくれたじゃないけど。

次期社長としてそれはダメってことですかね。
角そうですね。それはたぶん僕の知らないところでコンサルさんとかだ職員の方にも言っているとは思ってました。
今もうちで勤めててくれてます。ただ…まあそうですね、当時は結構喧嘩もしました(笑)
経営方針や運営に関しての喧嘩でしょうか
角そうですね、お互いに話さなかったのが問題だと言われました。
向こうもあんまり人と関わるのがそんなに好きなタイプでもなかったりとか、ちょっと言葉が強かったりとかであんまり好きじゃないなって僕がなっちゃってて。
彼としても納得いかない部分があったと思うんですよね。息子として帰ってきたけど、実際回してるのは俺だろみたいなところとかあったと思うんですよね。
そりゃそうだなと思うし…だからそんなに僕がフルフルで当時は働いていなかったというのもあって。
実習から帰ってきて、わーっとやってだれる時期もあったんで。たしかに客観的に見ると、俺良くなかったかなと思うし。
まあ、ここ10年やってるけど5年目か6年目くらいから人が増えだしたりとか入れ替わりとかあったり、新しく牛舎を建てるとか…そういうぐらいの時期に俺が動かないとまずいなと思ったし。
当時実習生で入れさせてくれって話があって、俺すごい嫌だったんですよ。たぶんそういうだれてる時期だったりもして、自信なかったんですよね。
だから嫌だなと思っていたんですけど。ただ実習生の中に酪農の経験は僕より全然浅いんですけど、一般企業で働いてたりとかしてて、経営に対する思いとか考え方とか従業員に対してとかすごい考えている子がいて。その子にすごい刺激をもらったんですよ。
『輝さんの思いがそのまま会社になるから、方針を固めないと。』とかこういう話をすげぇされて、生意気だなと最初は思ってたんですけど(笑)
でも足りなかったのはたしかなんで。
とりあえず動いてみたんですよね。そしたら、なんかすっげえ忙しかったんですけど…すごい達成感とは違うけど、なんて言うんだろう。気持ちいい疲れ方というか出し切った感?
うん、ですかね。一日終わったときに『うわぁ~疲れたわ!』と思うけど、なんか体も疲れたし頭も疲れたし…考えながら仕事をしていると、疲れるけど充実感はあったんですよね。あーなるほどなと思って。なんか今まで何してたんだくらいの充実感ですね。
当時は自分が動いてカバーするとか、そういう感覚がそこまでなかったのかなと思って。今はどちらかといえば誰かが急な休みになってしまったとかだったら、とりあえず俺やるわってはまっていくという感じなんですけど。今は逆にそればっかりでもなっていう気持ちもあるんですけど。てなるとやっぱり単純に人が少ないなと思うし、そこは今後整備するべきポイントなんですけど。でもなんか、その充実感は大事だなと思っていて。そこからですね、多分楽しくなったの。
そこから紆余曲折を経て代表取締役となられたわけですが、代られたのはいつ頃に?
角2023年ですね。2019年くらいから事業継承の話自体はあって、その制度を使ったりとかっていう話は進めてたんですけど。何年くらいに経営変わりましょうとか、そういうタイミングを言われてたんで。きっかけになってるのは僕の場合は全部人なんですよね。関わってくれている誰かなんですけど。
どんな20代でしたか?総評を教えてください
角前半充実、後半アウトですね(笑)
後半は全く楽しくなかった?
角哺育をがーっとやってるときは楽しかったです。あの、やったことが成果になってるんで。
やったことと成果がぐっとあがるとそれは楽しかった、やりきった感があったんですよ。
そのあとですね、大丈夫かなという不安と、次何していいかわかんないとか。でも忙しくないわけでもないし、遊びに行くのもちょっとめんどくさい。ただ家にいるみたいなのがあって…なんかただただつまんなかったですね。楽しくはなかったですね。

自らの意思で別の事業の方に手を出していったのか
角コンサルさんに別のこともやった方がいいと言われましたね。
自分的には哺育を今やっているのに?という思いはあったのでしょうか
角当時は人に任せるということができなかった。任せると崩れると思っていたんで。こんなに緻密にやっているのに…と。でも今考えれば独自に考えてやっていてそりゃ他人にはできんわなと逆に思いますね(笑)
20代の時って難しいですよね。手当たり次第やってみて自分だけの完璧なマニュアルになってしまったり。そこから横にいかされたときに…というのがありますよね。今だったら20代の人とか見てて、これやりたいですと言われても失敗するけどなって思う瞬間もあるけど、失敗させないと理解できないだろうなと。ミスされても会社が傾くわけでもないから、やってみれば?と…こういう部分は酪農系にもあるんですね。
角そういうのがわからなかったですね。これが何グラムとか…たいした変わんないよって今では言えるかもしれないけど(笑)
良くしてくれてた方も、端から見てて僕がだれてたのわかってたんでしょうね。だれると最高点出したと思ってたものもだれてるんですよ。
それを見て『あの時のあれ、もう一回見たいな~』とか言われるんですけど、もう熱量ないんですよ。もう自分の中で達成しちゃったから。

色んな人との出会いやきっかけが様々なターニングポイントになったかと思いますが、ターニングポイントとして結婚・実習生とのディスカッションがあってからはどういう意識に?
角まず自分が動かなきゃ人なんて動かないよね、それがまず最初にきました。自分が動く、動きながら考えて、人をどう動かすっていうのを考えていたし。あとは言い方はあれだけど…職員の顔は見るように、表情とか。話はするけどあんまり見てなかった。機嫌・体調悪そうだなとか、なんかいいことあったのかなというのを表情を見て話すようにしましたね。
コミュニケーションをとるようになった?プライベートな部分も含めて。
角そうですね、なかったわけじゃないけど。より、という感じですね。そうなってからの方が仕事上の相談もそうだし、プライベートな他愛もない話が増えましたね。その方が自分も気持ちいいな、働きやすいなと思ったから。なんかそこは、やっぱり人なんだなと思って。それにやっぱり自分が喜びを感じたんでしょうね。そのあとですけど、企業理念ができていって。理念を生み出す時も、そういう思い出し方を色々しててこれが生まれたと思うんで。やっぱりきっかけは人で、自分が喜びだなんだを感じるのも人が関わることで…ですね。
最後に30代に突入して一番大きな成功は何かありますか?
角成功は…そうだな。29、30くらいでその病気抜けて、後にもう一回なるんですけど。共進会に出してたんですね。
全道のトップクラスまでは取れたんですけど、それはやっぱりすごい成功で。僕たぶん出していたのが3年か4年なんですけど、十勝管内ってすごくレベルが高いんですよ、その中でクラスで頭とれたのが3頭いて、全道で頭とったのが1頭で、2番目とか上位入賞できた牛も2~3頭いて。やっぱりこうすごい成功というか復帰してからのスタートをきれたなというのがあって。
頭とったというのは1位ということ?
角クラスが月齢とかで分かれているんですけど、その中で。
全道をとったのはジュニア2歳クラスというんですけど。春の全道ブラック&ホワイトショウというのがあって、大きいショウが年4回あって春の十勝と全道、秋の十勝と全道というのがありまして。そこで、4大会あって最後の全道がちょうど胆振東部地震が起きて、会場がいつも安平なんですけどそれが中止になっちゃったんでなかったんですけど。それ以外の2回の十勝と全道1回は全部頭とったんですよ、その牛。
そのクラスで。それがやっぱり僕んちの代表牛だし、すごく良い成績を修められたんで…共進会という意味ではやっぱりそこはすごい成功。経営でいえば、牛舎を建ててロボット4台入れてスタート、まずスタートできたっていうのが。当時はできないと思ってたんですけど。
後は、木造牛舎で出来たっていうのがやっぱりでかいですね。こだわりを継続したままこのサイズの牛舎を建てられたっていうのが。そこの二つは30代の成功ですね。
